奈良、平安時代の葬儀について
2022/04/18
奈良、平安時代になって仏教が広まりを見せ、近畿地方を中心に火葬の風習も広まりも見せました。
火葬を行うにあたって、骨壺もこの時代から出てきました。
この時代の骨壺は土器を使用していました。
奈良時代では、首都(今の京都)でお墓を作ることを禁じられていた為、平城京からこの時代のお墓が見つかっていないそうです。
なので貴族や天皇であっても京の外にお墓が作られていたみたいです。
庶民は飛鳥時代と同じく、一定の場所に設けられていた場所に葬られていました。
平安時代では、高野山(和歌山県北部にある山)に火葬した骨や遺髪を納めるという高野納骨が盛んに行われていた時代でした。
また遣唐使の廃止に伴い、日本独自の仏教の発展を見せ始めた時代になります。
死は穢れとして捉えられ、人が亡くなるところに居合わせたり、亡くなった人に触れる行為は忌み嫌われることでした。
現代ではお墓に埋葬したあと、お墓の手入れをしたり、お墓参りに訪れたりしていますが、この平安時代では、めったなことがない限りお墓に訪れることがないのが一般的だったそうです。
しかし、この時代から現代に通ずるものがあり、それが納棺や僧侶という立場です。
納棺の際に遺体を綺麗に清めてから納棺したとされます。
身分の高い人が亡くなった場合は、納棺や、葬儀の日取り、埋葬される場所など、あらかじめ陰陽師に伺いを立てて決めていました。
火葬が皇族や僧侶のような身分の高い人々の間で火葬が広まる中、庶民は火葬などができず、風葬で行われていたそうです。
その理由は、まず火葬する場所が限られていることと、現代のように機械で火葬するわけではないので、薪が大量に必要なことです。
現代では1時間~2時間で火葬ができますが、この時代は一晩以上かけて火葬するため、薪が多く必要になります。
そして薪は貴重なものとされていて、火葬自体が選ばれた立場の人にしかできませんでした。
なので、庶民は風葬を行い、風化を待つやり方しかできなかったのです。
真言宗を開祖した三筆の一人の空海が、疫病の発生を抑止するために庶民に土葬を教えたとされます。
ここまできたら現代と変わりのないところまできましたが、身分の問題で火葬ができない人がたくさんいた時代だと思います。
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